プロフィール

 ~松田 彩加(Ayaka Matsuda)について~

プロフィール(詳細)

本サイトと私のプロフィールに興味を持ってくださり、ありがとうございます(^^♪
松田彩加(まつだあやか)と申します。
アメリカで学生・妊娠・出産・育児・仕事を経験した私が、なぜ未来の駐在員妻(駐妻)をサポートしているのか。私の生い立ちから詳しく書いていますので、読んでいただけると嬉しく思います。

誕生~大学時代

 私は生まれも育ちも名古屋です。
自分ではそんなつもりはないのですが、夫婦の会話中で夫によく「それは名古屋弁だよ」って訂正されます(笑)(ちなみに夫は東京出身です)。4人兄弟の3番目として生まれ、3人の兄弟の中に一人だけ女の子だったため、父親にもかわいがられてすくすく成長しました。

 生まれ育った名古屋で平々凡々な中学・高校生活を送っていましたが、いざ大学に行く際に進路に悩むことに。。。当時は将来就きたい職業や大きな夢があったわけでは無かったけれど、学校のお勉強はまぁまぁできたため進路をどうしていいものか結構真剣に悩んだのでした。

 結局、大好き&得意だった英語が学べる大学への入学を目指すことにして、見事現役で一発合格!【外国語学部】&【公立】&【家から通える】という大学に通うための条件を全て満たす、県内の大学へと進学しました。大学時代はスガキヤ(地元のラーメン屋さん)や野菜の袋詰め作業やテレアポ等のアルバイトをしながらコツコツとおこずかいを貯めていました

 高校生の時には貯めたお金で駅前留学、英会話の〇ーオンという語学学校に通い、語学の勉強もしていた真面目女子でした(笑)。なぜなら、私には大学入学時から「英米語に入学したからには海外の大学に留学したい」という大きな夢があったからでした。

 

アメリカ留学

 大学時代は毎日鬼のように出される宿題に加えてアルバイトをこなし、留学費用が貯まった大学2年の春休み。ついに夢だったアメリカへの留学を果たします。たった2か月でしたが、この短期留学で人生が大きく変わることになりました。

まず、2カ月しかない限られた時間で本気で勉強に打ち込みました。当時は学校の寮で生活しアメリカ人のルームメイトと部屋をシェアして住むことになりました。

アメリカへ行くのはもとより、アメリカ人と同じ部屋に住むなんてことは経験がなかった私は、残念ながらそのルームメイトとはいい関係が築けずに、2か月をすごすことになってしまいました。

交友関係ではとても残念な思い出となってしまっていますが、そのお陰か(?!)毎晩自分の部屋ではなく、寮のロビー(寮生の共有スペース)で深夜まで宿題をこなし、明け方寮を清掃に来る掃除のおばちゃんとコーヒー友達になったりしながら(笑)寝る間も惜しんで勉強していました。
自分の語学力の無さ、そして同時に英語で勉強する楽しさを身をもって味わった2か月間でした。

 帰国後、留学経験者が大抵かかるという「もう一度アメリカに帰りたい病」を例にもれず発病します。

 当然病は癒える事なく大学3年生の夏から再び、今度は長期留学生としてアメリカに戻ることになります。そして再び大学の寮でアメリカ人のルームメイト2人とともに華の留学生生活を再開することとなりました。

 短期留学の時の失敗を踏まえてこの時はルームメイトとも良い交友関係を築くことが出来、ルームメイトのお家にホームステイさせてもらったり卒業後何年もしてからお互い旦那さんと子連れで再開も果たしました(感動!)。

 しかし、あまりに学生生活が楽しすぎて実家への電話やメールを怠り、親に心配をかけることに汗。今みたいに一人一台携帯なんて考えられなかった当時は、英語が全く話せない母親が寮へ国際電話をかけてくるという事態に陥ったことも・・・。あぁ、お父さんお母さん、ごめんなさい(-_-;)。そのあと、電話を私に繋いでくれたルームメイトによる母親の物真似「ブラブラブラブラブラ…( ゚Д゚)」がしばらく続いた事は懐かしい思い出です(笑)

 

アメリカと日本の遠距離恋愛~結婚まで

 最高に楽しかった留学生活を終えて日本に帰国しましたが、当時知り合った人と帰国後もアメリカと日本との遠距離恋愛を続け、のちに結婚。

お付き合い時代も色々ありましたが、結婚を期に公務員としての超安定生活を手放して、名古屋からお笑いの街大阪へとお引越ししました。

しばらくは慣れない土地で親の助けもない中、新婚生活に戸惑いもありました(一番の戸惑いは料理を2人分作るスベ。私は4人兄弟で、いつも食事の際は「大皿でどーーーん!」とおかずが盛り付けられていましたので、結婚後2人での生活になって以降いつも食事を作りすぎていました(汗)。

 そんな中、幸運にも子どもを授かることが出来ましたがまた新たな心配事が浮上しました。それは、「大阪の駐車場料金がべらぼうに高い!」問題

当時住んでいた借家は南堀江(京セラドーム真ん前!)にあり、駅から徒歩数分という便利な立地だったために車を持っていませんでした。ちょっと用事があるときはなんばや心斎橋まで自転車でプラっといける距離でした。

時間が出来たから資格でも取ろうと始めたJ-Shine小学校英語指導者の学校(英会話学校〇ーオン)も難波だったので自転車でラクラク通えていましたので、何の不都合もありませんでした。

 しかし、有難いことに子どもを授かる事が出来、家族が増えたら何かと車を必要とする機会も増えるだろうということに思い至ったのです。

 それからは近所の月極駐車場事情を調べまくるのですが、大阪市内の駐車場料金の高さに圧倒されるようになりました。

結果的に
「駐車場を借りるだけでこんなに毎月のお金がかかるなら、夢のマイホームを購入しよう」
ということになり、新居購入を決断。

 身重のからだでありながらも家が建つまでは更地の土地と間取り図を見比べてニヤニヤしたり、大工さんとお話したりと毎週のようにお家の様子を見に行き、まだ見ぬ新居の完成図を妄想しながらウキウキ・ワクワク・ドキドキして過ごしていました。

 
 そしてついに夢にまで見た新居へのお引越しとなりますが、当時私は臨月直前(妊娠8か月)でした。

今思いだすと自分の行動が信じられませんが、おなかが大きくなって体は重いながら、新居に必要な家具などを近くのお店に買いに行って、木製の3段ラックを購入して自分で自転車に乗せて運んで帰ってきたりしていました(若さって凄い!)。

自分達のこだわりの間取りで建ててもらった我が家に住めるのが本当に幸せでした。しかし、私たちの生活を根本からがらりと変える出来事がこの後間もなく起こるのです。。。

マイホームを購入した会社員の洗礼 ~海外赴任辞令~

 それは私が発売を待ちに待った最新のヤマハ電動子乗せ自転車を予約待ちで購入して浮かれていた3月のある日。夫が仕事から帰ってくるところから始まりました。

やけに神妙な面持ちで「話があるんだけど・・。」と切り出された私は、「仕事でなんか問題があったのかな~?」なんて思っただけで、いつもながらの夫婦の会話といった感じでした。

が、実際に夫から告げられた宣告は、人生の天地がひっくり返るようなものでした。
それは、人事異動で夫に海外辞令が降りた事、行先はアメリカのNY州だと言う事でした。

「晴天の霹靂」とはまさにこのことだな、と後になって思い返します。
以前「もう一度アメリカに帰りたい病」を発症した私でしたが、さすがに子どもを産んでからというもの、その思いは遠い過去のものになっていました。

それがここにきてまさかの人生の大展開!思ってもみない時にこういう話は降ってくるんですね、きっと。私は「またアメリカに行けるんだ!」というワクワクした思いと、「この家は一体どうなるんだろう」という気持ちとともに漠然とした不安な思いを胸に抱いて、なんとも言えない気持ちでいました。

「『新居建てたりすると会社が辞令出す』とよく聞くけど、自分がそうなっちゃったー!」と、サラリーマンの性を思い知らされました。

 夫の海外赴任の辞令が降りたのが3月末、そして実際にアメリカに飛んだのが7月4日の独立記念日。

それまでの約3か月間という間は、ずっと夢をみているのではないかというような不思議な感覚で過ごしていました。

そしてこの、夢を見ているのではないかという感覚はアメリカに引っ越して1.2年はずっと引きずっていたように思います。

ふと見慣れないアメリカの景色を見ながら「なんでまた私はここ(アメリカ)にいてこの広い空をみているんだろう?夢かな?」って思っては我に帰ったりしていました。でもそこにはまぎれもなく現実として私の家族がいて、娘と夫がすぐ隣にいて、「あぁ、夢じゃなかった・・。」って思う、といった感じです。

今思えばこれはアメリカへの赴任が嫌だったというわけではなく(むしろウェルカム!)、自分たちの運命が自分の意図とかけ離れた所から、ずるずるっとどこか知らない場所に引きずって行かれるような感覚があったからだと思います。

アメリカで再び大学生、妊娠・出産、そして音楽の先生へ

 始めは海外赴任は2年間の任期で、ということだったのですが、その期限がやってきては任期が1年、また1年、と伸び、結局5年間という長い間アメリカの駐在員の妻として現地で暮らしました。

 駐在生活始まってすぐ、子ども夫の会社のすぐ隣にあった保育園に入れました。

 初めは駐在の任期が2年と聞いていたので、限られたアメリカ生活の中で子供には出来るだけたくさん英語のネイティブの発音を耳に入れておいてあげたかったからです。 

 そして子供を保育園に入れることでひとりの時間が出来た私は、近所にあった大学に通い始めます。
 
何を隠そう、私は大学が大好きです。

勉強も大好きです。
図書館も、ジムも、教室も、食堂も、あの若者や学びたいという人たちのエネルギーにあふれた空間が本当に大好きなんです。

 当時まだ車を持っていなかったので、朝旦那さんに仕事に行く前に学校に降ろしてもらい、仕事が終わったら迎えに来てもらうまで図書館で過ごすという生活を送っていました。

 私は子どもの発達心理学に興味があったので主に心理学のクラスをメインに受講していました。

 そして2年ほど通ったのち、いよいよ単位も沢山取れてきたので、真剣に卒業を考えて進んでいこうとしたのもつかの間。なんと入学願書を差し戻されてしまうのです。理由は、「私の持っていたビザが学生ビザじゃない」からとのこと(+o+)。

 当時私は旦那さんの仕事の帯同としてビザを発給してもらっていたので(現地で正式に仕事出来るビザでした)、どうしても卒業したければ学生ビザに切り替える必要がありました。

 夫の駐在の帯同でビザを発行してもらっている身としてはもちろんそんなことは出来るはずもなく、あえなく大学卒業の夢は破れてしまいました。
 卒業の夢はかなわなかったけれど、この駐在生活の間に私は大学で勉強して学生になったり、子どもを保育園や小学校に入れたり、母として現地のお友達の家族と付き合ったりすることが出来ました。

 またラッキーなことにアメリカ在住中に第2子を授かることが出来、現地で妊娠・出産も経験することが出来ました。
特に夢にまで見たアメリカでの出産は初めての経験だったこともあり、とても刺激的でした。

 アメリカで育児をする中で幸運にも出くわした素晴らしい出会いのうちの一つが、上の子どもと一緒に通っていたmusic class(日本で言う、幼児リトミックのようなクラス)でした。

 この指導法は日本の子どもたちの英語習得に絶対役立つ!と確信し、アメリカでインストラクターの資格を取得し、実際にアメリカ人の親子相手にクラスも開催できるほどになりました。

このインストラクターとしての資格は現在の仕事に直結する経験となったので、子どもの習い事を通しためぐりあわせに本当に感謝しています。

夫の海外赴任が決まった未来の駐妻のサポートを開始

 現在私はアメリカ駐在時代に取得した音楽クラスのインストラクターの資格を活かして仕事をしています。

 そして同時に、元海外駐在妻としての経験を活かして、
「これから駐在員妻としてアメリカに渡る方々のお手伝いをしたい」
という気持ちが徐々に大きくなってきたのです。

 1人でも多くの未来の駐在員妻が
笑顔で日本からアメリカに飛び立って生活できるような
アドバイスサポートをしています。


このきっかけになったのは、
現地で夫の会社のイベントに参加したときの事です。

夫の同僚だったアメリカ人に言われた
何気ないこんな一言がずっと私の耳に
残っているからです。 

 ”Happy Wife, Happy Life”

 

アメリカでことわざのように言われている言葉です。

これは簡単に翻訳すると、
「奥さんがハッピーでいられれば、人生まるごとハッピーだ!」
という事。

つまり
「奥さんが幸せであればみんなうまくいく」
って意味で使われます。

アメリカ人が私たちに言ったこの一言が、
ずーっとその後私の中に留まっているのです。

家庭の中で、
奥さんの機嫌が悪ければ
旦那さんも到底ハッピーにはなれませんし
ましてや幸せな家庭生活も望めません。


さらにお子さんがいらっしゃる「お母さん」
であったなら、旦那さんだけではなく
子どもにもいい影響を与えないのは明らかです。

子どもって、
多少家の中が散らかっていても
夕ご飯が出来合いのお弁当だったとしても
お母さんさえいつもニコニコ笑顔でいてくれたら
それだけで楽しいし
嬉しいんですよね。


逆に、凄く家がきれいに片付けられていて、
毎食手の込んだ料理をテーブルに並べられたとしても、
お母さんが常にしかめっ面をしていたら
心がとても不安定になるんです。


だから私は「海外赴任という人生の大転換期」
を迎えた駐在員の方の中でも、特に
家庭の「妻」であり時に「母」でもある
「女性」をサポートしたい
と考えています。


「海外赴任にかかる手続き」
と一言では片付けられないほどの
煩雑さと事務量がそこには隠れています。

一例を挙げれば、

日本での引っ越しの申込と手続き
実際の引っ越し作業
日本のお家の契約解除

逆に海外にいる間に
契約が切れてしまわないようにするための
延長手続きやビザ申請のための書類収集
実際に大使館へ赴いての面接とその準備
渡航先に合わせた予防接種の検討と
区役所等への事務手続き。。。。


すこーしだけ例を挙げただけでも
めまいがしそうですよね。

そして実際に海外に移動してからは、
日本で解約したものの逆バージョン
をやらなくてはならず、
様々な新規契約の嵐が待ちうけています。


夫婦でのお引越しもさることながら
ましてやお子さま連れの帯同の場合、
日本での学校転出手続きや現地校の選定
またはそもそもその学校区を考慮に入れた家選び
など自分一人では頭がパンクしてしまう煩雑さです。

主人に異動辞令が出てから実際にアメリカに飛び立つまで
我が家では3か月程ありましたが、
その間にも夫は前任者との引継ぎで
短期ベースの出張で家にいない時が多くありました。

もちろん出張先はアメリカです。

仕事の打ち合わせの他にも、
実際に現地でのアパート選びや学校の手続きなど
夫は夫でやることが山積みでした。


なので夫に相談することなく
私が一人でどんどん決めて進めていかなくてはいけないことが
沢山ありました。

当時1歳の子どもを連れいていた私は
毎日「やる事リスト」とにらめっこをして
やり残したことはないか
とメモに穴が開くほど確認しながら
準備に飛び回る日々でした。

常に
「これで良いのかな?」
「これはどうしたらいいのかな?」と、
不安な気持ち
で過ごしていました。

正直、この時期はアメリカに行けるウキウキ感よりも
「やり残したことはないだろうか」
という不安な気持ちに支配されて
気持ちが暗くなることも多かった記憶があります。

引っ越し準備中、私の救いは相談できる人がいたこと

そんな中でも救いだったのは、
夫の会社から派遣されている前任者の方に
メールで何度かやり取りができる事でした。

とりあえず夫と相談したりするのですが、
どうしても確認したいことは
この方たちにお話を伺うことが出来たのです。

いくらネットで情報を集めたところで
経験者の言葉を生で聞けることほど
参考になる事はありませんでした。

「自分で調べても分らないことは、この方に聞けるんだ」
と思えたことは私にとっては心の拠り所

の様なものとなったのでした。

忙しい赴任の準備期間中も心の平穏を保てたのは、
後に現地での生活立ち上げもサポートしてくださった
この同僚の方のお陰であり、本当に感謝しています。

このサイトの目的

 私は海外駐在員として
何物にも代えがたい貴重な経験
をさせてもらいました。

本当に楽しい思い出ばかりで、
今でも出来る事ならまたいつか
戻って暮らしたいと思うほどです。

ただ、夫の辞令から現地入りまでの、
あの不安で多忙だった三か月間のことを思い出すと
気持ちがどーんとしてきます(^^;)


だから私と同じように
旦那さんのアメリカ赴任が決まった奥さんやお母さん達に
「私と同じ苦労や苦しみはもう味わってほしくない」
と本気で思っています。


同じ会社の前任者やすでに前入りしている方に
お話を聞けるのであれば、
それ程辛くはないかもしれません。

皆さん「お互い様」
という気持ちをもって出来る限り
助けてくれると思います。

でも、もし誰にも相談できずに困っていたり
会社の人には以外と相談しにくい
と感じている人がいるなら
私のサイトを訪れて欲しい
と思っています。

そして、私がしてしまった失敗はすっ飛ばして
海外赴任準備をスムーズにストレスなく
進めていただきたいと思っています。

誰かに相談したり話を聞くことで
気持ちが軽くなるなら
是非一緒にお話ししましょう。
ただの井戸端会議でも心晴れることがありますしね。


アメリカ赴任までの準備をはじめ、

  • 交換留学生
  • 大学生
  • 主婦
  • 妊婦
  • 音楽インストラクター 等々

いろいろな立場で経験を積んだからこそ語れる
アメリカ人の考え方や
ご近所さんとうまく関係を築いていくためのヒント

などをお渡しできると思っています。

こうして何かのご縁でこのサイトを訪れて下さった方には
アメリカ出発当日、ぜひ晴れ晴れとした気持ちで
空港へ向かって欲しいと願っています。

「だれにも相談できる人がいない」
と不安であれば是非無料相談をご利用くださいね。
意外近い人には相談しずらい事もありますし。



海外赴任に伴う手続きはとても煩雑
さらに日本にいる間にすることは
手続き以外にも多岐にわたります。

これから赴任される方にとって
拠り所となれるような情報を提供したい
と考えてこのサイトを作成しました。

また、すでにアメリカに赴任されている方の中にも
現地の文化や考え方を理解するチャンスに恵まれず
人間関係や近所の方とのお付き合いに悩まれる方にも
生活のヒントをお渡し出来たらとても嬉しく思います。

私が当時感じた悩み、迷い、不安への対処法を
経験者としてアドバイスしながら
一人でも多くの女性が
スタートから素敵な駐在員生活を始められるように
祈っています。

長文となりましたが最後までお読みいただき、ありがとうございました。

松田 彩加